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 いちもん 第55号 掲載作品




 あるモノがあって、それがいまなお発達し続け、しかも日々のくらしの中に当たり前のようにとけ込んでしまっているとき、発達の途中で淘汰されたさまざまな発想や工夫は、数年もたたないうちに人々の記憶から消し去られ(「昔からこんなものだったのだろう」というわけだ)、それを実現しようとした膨大な労力と飽くことのない情熱もまた、わずか数ページの記事となって広大な書庫のどこかに紛れ込んでしまう。
 日本でテレビの本放送が始まった七年後の昭和三十五年、すでにゴールデンアワーの時間帯で始まっていたカラー放送を何とか受信して楽しみたいと考えていた人たちが、高価なカラーのブラウン管を使わずにモノクロブラウン管二本を組み合わせたカラーテレビを作ろうと考えていたことなど、いまとなっては知る人もない。
 まして、翌昭和三十六年に、この二本のモノクロブラウン管方式によるカラーテレビが売り出され、値段の割に十分に楽しめると好評を博したのみか、製造会社の株が急騰したことなど、考えも及ばないことである。
 ありがたいことに放送博物館には、このテレビの実物が存在する。十四インチのコンソール型テレビである。ブラウン管は奥まった位置に設置され、画面には赤のフィルターがかけられている。いったいどのような原理を応用したものなのだろう。どのような仕組みでモノクロのブラウン管にカラーを映し出そうとしたのだろう。見れば見るほど、疑問は深まるばかりである。確かなのは、そこにカラーテレビ初期の人々の熱い思いが封じ込められているということだ。その努力の跡をたどるためにも、手がかりを一つ一つ解き明かしていかなければならない。

 オリコカラー14DC型テレビ受信機は、昭和三十六年八月、千代田区一つ橋如水会館で公開実験が行われた。一般のカラーテレビが三十万円以上もしたその頃、十二万九千円でカラーテレビが買えるというので、三百人近い参加者があったという。


 構造はそれほど複雑ではない。コンソールの奥に一本のブラウン管が、こちらに向けて置かれている。もう一つのブラウン管は、その手前下部に上方へ向けて設置されている。二つのブラウン管は互いに直角に位置することになる。
 赤・緑・青の三つのカラー信号のうち、正面のブラウン管に緑の信号を入れる。このブラウン管には緑の蛍光塗料が塗られている。上を向いたブラウン管には赤のフィルターがかけられ、これに赤の信号を入れる。
 二つのブラウン管の間には、斜め四十五度にハーフミラーが挟み込まれている。緑の映像は真っ直ぐハーフミラーを通して見る。赤の映像はハーフミラーに反射して目に入ってくる。この二つの映像がピタリと重なるように調整する。われわれは、緑と赤の光を混ぜ合わせて見ることになる。
 カラーテレビの原理は、光の三原色である赤・緑・青に基づいている。日本で採用されているNTSC方式は、この色信号と明るさの信号を同時に送信する。ほかに画面ごとに赤・緑・青を順次に送るCBS方式があるが、何れの場合も三色が必要であることに変わりはない。それなのに、このオリコカラーは赤用と緑用のブラウン管しか持っていない。なぜ二色でよいと考えたのだろうか。どこかに隠れた仕掛けがあるのではなかろうか。新たな疑問が生まれてくる。

 三本のモノクロブラウン管を使って、それぞれを三原色に割り当てたとすればどうだろう。この場合は原理通りで、それほど頭をひねらずに済む。


 東京オリンピックの昭和三十九年に三菱電機から発売されたトリネスコープ6CT388型受信機は、この方式を取り入れている。二色式に比べて、ブラウン管が一本増えただけ構造が複雑になる。
 見る側に正対する緑のブラウン管と手前下部の赤のブラウン管との間に、もう一つ上方に向けて青用のブラウン管を置き、赤と同じようにハーフミラーを取り付けておく。緑の映像は二枚のハーフミラーを通して見ることになる。三原色を混合するわけだから、理論上あらゆる色の再現が可能だ。
 ところが難点がある。このように三本のブラウン管を一列に並べると、奥行きが深くなっていかにも見づらい。さてどうしたものか。当時の人々はブラウン管の配置にも頭を絞った。
 追加した青のブラウン管を、上方から赤のブラウン管に向かい合うように設置したらどうかと考える人もいた。青用のハーフミラーは赤用と直角に交叉することになるので、あらかじめ二枚のミラーをX型に組んだものを用意する。正面の緑はハーフミラーを直進してきた素通しの画面である。青画面の映像はハーフミラーの上面に、赤画面は下面にそれぞれ反射させる。その三色を混合したものを、われわれはカラーの虚像として受け取ることになる。


 しかし、カラー画面を再生するのに三本ものブラウン管を必要とするのは、いかにも大がかりだ。まず三つの映像を一つに見えるように調整すること自体が面倒である。それに大きな画面で見たいという要求は誰にもある。九インチ程度のブラウン管ならまだしも、テレビが大型化していくことを考えると、この方式ではいずれ行き詰まるに違いない。
 
 ならばブラウン管にかけるフィルター側になにか工夫はできないか、と考えるのは当然の成り行きというものである。
 オリコカラーが発表されたその九年前、テレビ放送開始を目前に普及につとめた人たちがいた。アマチュア技術者のためにせっせと製作記事を書き、部品メーカーに声をかけて、回路の標準化や部品の均質化と安定供給につとめた。かつてのラジオ少年たちは、むさぼるように記事を読み知識を深め、わずか七インチの円型ブラウン管を使って世界にも類のない電源非同期型の受信機を組み上げた。その精神は、カラーテレビ前夜のいまも生きているはずだ。そう考えた人たちが、アマチュア向けの雑誌に記事を書いた。その中にフィルターを巧みに使った、半機械式の発色法が出てくる。
 この方法では、モノクロのブラウン管を一本しか使わない。その代わり、ブラウン管には赤・緑・青の信号を、走査する画面一枚ごとに一定の順序で送り込む。赤の信号による映像が画面に描かれたときには赤のフィルターを画面にかぶせ、緑の信号のときには緑をかぶせる。このようにして次々にフィルターを取り替えていく。とはいえテレビ画面は一秒に三〇フレーム、つまり三〇枚の画を描き換えて動画にしている。一フレームごとに三色のフィルターを取り替えるとなると、目にもとまらぬ早さになる。とても人間業でできることではない。そこでフィルターを取り替えるための装置を考えることになる。
 まず思いつくのは、三色のフィルターを放射状に組み合わせて円盤を作り、ブラウン管の前で回転させる方法である。モーターの回転を、ブラウン管に送り込む色信号に同期させ、ブラウン管が赤の信号を映し出しているときは円盤フィルターの赤の部分が、青の画面の時には青の部分がブラウン管の前に来るようにする。


 実験の記録写真が残っているが、ブラウン管の三倍ほどもある大きな円盤が、画面前部に取り付けられている。これが高速でブンブン回転するのだから、カラーテレビを手に入れたと胸を張っても、安心して色つき画面を楽しむわけには行かなかったろう。
 なんとか小型にできないかと

、フィルターで円筒を作り、その中にブラウン管を入れた「回転ドラム型」が売り出された。国際テレビが昭和三十一年八月に発売した「モノ・カラー」である。
 正面から見ると、大きなフィルタードラムが水平に横たわり、その内側にほとんど接するようにブラウン管が設置されている。ブラウン管はドラム軸上に浮いた形で固定され、外側をドラムが回転する。ブラウン管に加えられる色信号と、前を通過するフィルターはもちろん同期させてあり、赤の画面が表示されているときには赤のフィルターが前面にくるようになっている。これは円盤式と同じである。
 しかし小型化されたとはいえ、手の触れるところに回転する物体があることに変わりはない。画面を囲む大げさな額縁は昔のテレビではおなじみのものだが、それに似た形の保護枠がフィルターの曲面に合わせて取り付けられている。指が挟み込まれるのを防ぐためのものに違いない。
 こうなるとテレビ受信機というより、機械といった印象が強い。モノクロのブラウン管で、なんとかカラー画面を映し出したい。その知恵比べは、ここまでくると力わざの様相を呈してくる。

 さて二色式のオリコカラーである。赤・緑の二色を受け持つブラウン管だけで、なぜカラー表示が可能なのか。その疑問を解くカギは、昭和三十四年春アメリカで発表されたある大発見にあった。
 ロチェスターで開かれた写真学会の会議で、ポラロイドの社長であるエドウィン・ランド博士が、それまでの常識をくつがえす新たな説を公開したのである。それは赤と白の光さえあれば、ほとんどの色が表現できるというものだった。
 光の三原色は、誰もが知っている。しかし色の世界はもっと深く、われわれの知らないことがまだ多くあるのではないか。会場は騒然となった。
 ランド博士自身、この発見は信じられないものだったらしい。次のようなエピソードが残されている。
 学会の四年前、日本でいえば昭和三十年に、博士は赤・緑・青のフィルターを使ってカラー写真の映写実験をしていた。三台のスライド映写機に、それぞれ三色に分解したスライドを投射させ、スクリーン上には合成された写真が映しだされていた。
 ランド博士が青の映写機の電源を落とし、緑と赤の映写機だけで実験していたときのことである。緑の映写機にセットしていたフィルターを、博士がうっかり抜いてしまった。一瞬スクリーンには強い白色光による映像だけが残った。赤の光による映像も映し出されていたのだが、明るい白の光でかき消されてしまったのである。
 その時、助手の女性が不思議な質問をした。画面に、緑や青のみならず、さまざまな色が見えるような気がするが、それはなぜかというのだ。生きているのは、赤と白の二台の映写機だけである。
 「それはあなたの目が疲れているためでしょう」
 その日の実験はそれまでにして、博士は部屋に引き上げた。
 気になって寝付けなかったランド博士は、夜中に起き出し赤と白の映写機に電源を入れた。白色の明るい映像が目に飛び込んでくる。博士はそこで、白の映写機の光量を少しずつ下げていった。すると、ある光量の所まできたとき、突然スクリーンに自然のままのカラー映像が浮かび出たのである。
 これは、現在のテレビ送信に使われているNTSC方式のI信号に通じるものである。I信号は、国際照明委員会の色度図(色の地図)の、オレンジからシアンを結ぶ直線上の色をつかさどる。人の目は、色彩を持った対象物が細かくなると、オレンジ~シアンの軸上にある色だけで判別できるようになる。このI軸とほぼ直角に、グリーン~マゼンタを結ぶQ軸があるが、NTSC方式ではI信号の方が重要視されている。


 そのようなわけで、三原色よりも二色を採用せよと言われたときには、I軸上にある色を採用した方がよい。I軸は、赤に近いオレンジから白を経て青緑に至る。ランド博士が偶然に発見したのは、この軸上の右半分の両端、つまり赤と白を使った二色による発色だったのである。
 オリコカラーが赤と緑の二つのブラウン管を選んだのは、この原理に基づいていた。当時、日本ではすでにNTSC方式の採用が決まっていたが、受信機の方ではまださまざまな方法が模索されていた。その中で、ランド博士の二色法を取り入れた二ブラウン管方式のテレビは、簡易で安価な普及品として期待された。しかし、三つのブラウン管を二つにすることができたとはいえ、画面の大型化が進めば、とてつもない重さになることに変わりはない。
 モノクロブラウン管に比べて構造が格段に複雑なシャドウマスク方式三電子銃のカラーブラウン管は、価格が高く、それがカラー受信機普及の足を引っぱっていた。オリコカラーが発売された昭和三十六年には年明けから値下げ競争が始まっていたが、それでも十七型の受信機は三十五万円もした。地磁気の影響を受けやすく、置き場所を変えるたびにサービスマンを呼ばなければならなかった。調整も難しく、よりよいカラーブラウン管を求めて各社がしのぎを削っていた。そこに登場した二色式のモノクロ管カラーテレビは、技術者だけでなく電波少年や街の発明家たちまでもとりこにした。知恵をしぼって作られたハーフミラー二色式のカラーテレビは、

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、アマチュアに手に負える最後の機器だったかもしれない。

 シャドウマスク方式のブラウン管はいつしか標準となった。技術の進歩は大量生産を可能にし、品質は安定した。価格は下がり、テレビ受信機は茶の間からリビングへ、さらに家族それぞれの個室へと進入した。
 大画面への要請はプロジェクションテレビを産み、プラズマディスプレイを進化させ、液晶大型画面を登場させた。いま、巻物のように丸めて持ち運ぶことのできる、フィルム液晶素子画面が研究されている。いよいよテレビを壁に貼る時代がくるのだ。
 美しくスマートで安定した画面が、次々に性能を誇る。ほゝえましい仕掛けがあちこちに施された手づくりテレビの出番は、、もはやどこにもない。

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(2003.07.01)
 





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